昭和四十三年十二月十八日 朝の御理解
御理解第八節
「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
信心しておかげを受けてくれよと。この、ここんところが神様の願い、神の願いなんです。信心しておかげを受けてくれよと。不信心者ほど神はかわいい。子供の中に屑の子があればそれがかわいいのが親の心であるように、不信心者程かわいい。
それはどこまでも情である。親でもどうにも仕方の無い感じ。ね、可愛いのは可愛くても、ね、撫ぜてもさすってもやれないのである。神様から、あまり親に、から離れておる者は。親に、例えば屑の子と言えば、いよいよ役に立たないと、こう申しましょうか。まあ不幸な子とでも申しましょうか。どこまでも、あの神様の情であっておかげを受けるというのは信心していかなければ受けられんのでございます。信心しておかげを受けてくれよと。
親鸞上人様が言うておられます言葉のなかにも、善人でも助かっておる。だから悪人ならば、なおさら助かるという意味のことをね、言うておられます。悪人においておやと、こう言うて。善人ですら助かっておるのであるから、悪人なら尚更助かるんだと。けども、その、悪人がここにひとたび目覚めて本気で仏様を拝もう合掌する心になろうお助けを頂こうと、私のような悪人でもと言うていかなければ、しかし助かる訳にはいかん。そうなってくると、これは所謂神様ですかねえ。神様の、所謂親心、子に屑の子程可愛いのが、と、こう言うておられる。それと同じように思われますねえ。屑の子ほど可愛い、ね、善人でも助かっておるのであるから悪人なら尚更助かられるんだと。そこに私は、神様のお心があると、こう思うんですねえ。
ここで親鸞上人様の事で申しますならば上人様は段々信心が深うなっていかれればいかれる程、もう世の人からは生き仏様のように言われるようになられてから、いよいよ自分の浅ましさというか、人間の、まあ、日本一の自分は悪人だという風に言っておられます。このへんが、又本当にこう微妙な、所謂デリケートな所だと、こう思うのです。信心によって自分がいよいよ悪人である自覚、所謂屑の子であるところの自覚、そんな悪人だけれども、あなたのお救いを頂かなければ立ち行かない私だという信心が、そこにある。屑の子の自覚、これも同じ事。
信心が段々分かれば分かるほど、私のような私のようなつまらん者、私のような屑の子、いよいよ御厄介者であるところの私、それでもやはり縋らなければおられないと。
毎日、今暇さえあれば古川先生のお話を頂かせてもらんですけれども、口を開くと仰ることはですね、私のような者が出来てから、お爺さまにあたられますからね教祖様が、ね、もうとんでもない孫が出来たと思いよんなさるじゃろうと(笑)、こう言われるんです。
それで教祖様の事、三代金光様の事どもをお話になる時には、もうそれこそ目に涙して語られます。本当に、もうつまらん孫じゃと、言うて思うておられるだろうと、こう言うておられる。それでもやはり金光様のお救いを頂かなければ、お取次を頂かなければ、おかげを頂かなければ立ち行かん私達なのだと。だからどんなに神様がご迷惑になっても、やはりご迷惑を掛け続けん訳にはいけん私達だと、こう言うのである。日本一の大悪人を、と自覚された親鸞様が、やはり仏の救いを頂かなければ立ち行かん親鸞であるという事。自覚すると、それに同じようなものじゃなかろうかと、こう思いますね。
そこで私達も段々信心が分かってくる事によって、ね、本当に、あの相済まん私である、自分であるという事を段々分かっていくという事が、実はだから信心が分かっていきよるという事になるのじゃないだろうか。どうでも神様にお縋りしなければ立ち行かない私であると、そこから私は信心しておかげを受けてくれよと言うのは、そこから屑の子の自覚に立って神様の可愛いという念を、いよいよ情の念を神様が、その屑の子の上にかけて下さる。その屑の子がどうにも出来ない私ですから、神様、お救いを願う。どうぞ助けて下さいと言う信心、所謂信心しておかげを受けてくれよ。
そこで私は思うんですけれどもね、本当に、その例えば金光大神のお徳に御縋りをすると言う事がですね、ならどうゆう縋り方。
これは、もう二十何年も前に、私、福岡におります時分に、福岡の教会におかげを頂いております頃でした。ある時福岡の三代吉木辰広先生ですねえ、先生が、朝の御祈念にお参りさせて頂いたら、皆が帰らっしゃる。私は、もう兎に角、その、人、所謂屑の子の自覚が段々出来てき、人が一時間拝むとにゃ自分は二時間も拝まにゃ助からん私だと思うておる。ですから御祈念を頂いて御理解を頂いて、皆が帰られるのを待って、又改めて一人で御祈念をする。これは自分は屑の子の自覚というものが段々出来てくるからであります。人より欲が深いという意味じゃない、ね。
そういう或る日、私の御祈念済むのを、何時もお食事下がられるんですけれども下られんで私が御祈念を済むのを待っておられるように吉木先生、待っておられるんですよ。てから、手招きして大坪さん大坪さんと言われるから、又御結界進みましたら、これはな、あの、他の者には見せられんばってん、あんたならよかろうと言うて、そのガリバン刷りのですね、用紙にガリバン刷りで、してある。そうですね、4~5枚位綴じてあるもんです。当時、あの、壮年教師の方達が御本部で特別修行をなさった事がある時に、三代金光様が壮年教師に対してお話下さったのを、そのまま筆録して、それをわずかばかりですから、ガリバン刷りで、その一部づつ頂いておられるものでした。これはだから青年教師にも見せられない、信者には尚更見せられないというのが、本部の、まあ、そういう方針といったようなものを、本部では私共はそう思わんけども、そう感じられたらしいです。これはどこまでもあんた達のもんだぞと。お道の中堅である壮年教師の皆さんのもんだぞと。金光様、只今、ああしてもう本当に只「はいはい」とおしゃるだけでお取次なさっておられるけれども、金光様のお若い時には、こういうような御修行も、こういうような事もあったんだという事をですね、金光様がお話なっておられる事を記録してあるものでございました。もう私は、手が震うように読み出してから思いましたんです。その、私、別に、なら、私、まあだお道の教師を志しておる訳でもない私ですよね、その私に大坪さん、あんたならば見せてもよかろうと言うて見せてくれた。それが三代金光様の所謂御事どもでした。
それにはね、こういう事がいろいろ書いてある中にですね、或る時に所謂霊能者ですね、神様から、やっぱ祈祷者のような人がお参りをしてきて、まあ言うならば金光様とひとつ信心問答でもしようと言うてやって来た。そしたら金光様がですね、貴方が、あのここにお見えられる事は三日前から神様からお知らせを受けておりましたと、おっしゃたそうです。その修行者がですね、三日前から思い立ったそうです。もう問答なしに恐れ入りましたと言うて帰ったという話やら、先日も何処何処のはっきり言うておられるですね、何処何処の教会の先生がお賽銭箱のぐるりをぐるぐる回っておられます。そのへんの所をぐるぐる回っておられるから、あぁあれは何処の先生だなあと思うたら、その先生の生霊でしたと言うておられます。
生霊を目で拝んでおる、肉眼で拝んでおられたのです、ね、生霊て。死霊生霊と言う事を申しますでしょ、私も一時生霊を拝んだ時代があります。或る方が参ってきたなあと思いよると、なんのそれは生霊です。ね、で、こういう先生のお広前ではおかげが受けられませんとおっしゃておられる。
先日は何処何処の先生が御結界のぐるりをぐるぐる、ぐるぐる、その回られる。何処何処の先生の生霊が。そして金光様のお側によっては、その、御袖をあたらして頂いたり、その、お着物の端をあったたり、御結界の、そのもう金光様のお徳を、もう慕うておられる先生なんですね、言わば、の先生でした。こういう先生の所では生きた御比礼が輝きますとおっしゃる。まあそういう、まあ色々な事が書いてある。
まあ成程現代の教団では、こういういかに金光様がおっしゃた事でも、やはり一般には発表されないだろうと私も思ったんですけれどもね、そのようなお話から聞かせて頂きましてもですね、いかに信心しておると言うても一番最後の文、信心しておかげを受けてくれよとおっしゃる信心とは、ね、おかげが受けられる信心とは、ね、お賽銭箱のぐるりをぐるぐる回っておったり、お供え物のぐるりをぐるぐる回っておるような信心ではおかげは受けられませんと、はっきりおっしゃておられます、ね。
ほうちょいとたいしたお供えじゃある。うち辺りの教会にもあげんお供えが上がるといいけれども、と言うような考え方です。ほんに御本部のごとあげんお賽銭箱だけでん御本部のお賽銭のしこだけでん、うち辺りならあるだけならええけれどもと言ったようなね、考え方の先生の所では御比礼は立ちません。わざわざ御本部までお参りさせて頂いてお取次を頂いておっても何を御本部に頂きに来るのであろうか。けれども金光様のお徳を慕うて御本部へお参りをして金光様の、このお羽織やら袴やらをこうやってたとえ擦らして、こう撫でるだけでもと言うて、その金光様のお徳の側に寄って来る先生の所では、そういうお広前には生きた御比礼が輝きますとおっしゃとる。
ここの吉木先生あたりが壮年として、まあ言うなら四十五十余りの先生方ばかりの集まり、もう言うなら信心も一番有難い、くのいった信心の、言わば御神徳でも受けて行こうという年配の先生方に対して、そのようなお話をなさっておられます。ここではまぁそういう話を何時も皆さんが頂いておられ、今日も、まあ他の方には見せられないという、聞かせられないというようなお話をこうやって皆さんに聞いておられる訳ですけれども、今日のこの御理解第八節から感じさせて頂く事は、まず何と言うても屑の子の自覚というものがお互いの信心内容に段々出来てくる。ね、それがね、側に寄ろうともしないんではおかげにならんのです。信心していくら屑の子が可愛いと言うても、いくら悪人は善人よりも助かると言う。善人すら助かっとるのだから、悪人は尚更助かるんだというてもです、その悪人が目覚めて、そして自分のような悪人でもお救いを頂かなければというような心にならなければ助けようがないのが私は弥陀如来様と言うですか、天地の親神様と私共は申し上げるが天地金乃神様はそういうお方なんです。ね、そんなら只助けて下さいと言うただけではいけない、そこに目が醒めなければならない。そこんところを信心しておかげを受けてくれよと、こうおっしゃる。
ね、ですから、いかに只言うならばお賽銭箱の周囲である、お供え物の周囲であり、所謂お金、金銭のお繰り合わせを頂きたい、ね、只所謂ご利益の事だけに終始する信心では、だからおかげが受けられない事が分かります。信心してなのであります。屑の子の自覚に立たせて頂く、これがもうおのずと分かれば分かる程自分が、ね、高橋正雄先生のお言葉じゃないけれども「見ること見ること自分を見ること」いよいよ信心とはそういうものを教えてくれる。自分をいよいよ見る、見極めていくところから、自分のような浅ましい、血の繋がりの上においては教祖様の言わば直孫にお当たりになる、三代金光様とはお従兄に当たられる。教祖様の奥様のお里の方から言やぁ古川やおぞうさんの曾孫に当たられる。もう金光家からも古川家からも、そういう血の濃いい繋がりを持っておられる古川先生がです、それを実感として言うておられると思うんですけれども、私のような孫がでけてと、こうおっしゃる。
それでもやはり金光様のお取次を頂かなければ立ち行かない私なんだと、おかげを頂かなければ立ち行かない私だと、私のような孫がと言う事なんです。ね、現在の教管をなさっておられますね、ですからお国で言うならば総理大臣です。までもお勤めなられてご兄弟三人ながら、そういう要職におつきになられた。いわば名門中の名門ですよねえ。そうゆうお徳を受けられた先生が、言わば教祖様のお足手まといになっておる自分だというような意味の自覚です。あたしが教団におるから、私がこの教会に、私達がこうやって御用頂いておるからお広前がたっていきよるといったようなものではなくて、もうお邪魔になっておるんだ。
四神様というお方は、もうそのものずばりに教えられたお方ですね、二代金光様。或る時に或る教会の世話役の信者が参ってきた。私は何処何処教会の世話役をさせて頂いております、何々という氏子でございますち言うてから、お届けされ四神様がおっしゃた。ね、「世話焼き、世話焼きがねえ、世話になるようではおかげにならん」と、おっしゃた。かえって教会のお世話になっておるような事ではおかげにならんぞと言う事なんです。
ね、けども、そういう私は、世話焼きが多くなったとこう思う。昔は、総代、今は総代幹部とこう言う。昔は、もう御世話役、教会のお世話役さんである。ね、世話役が世話になってはおかげにならんぞと、おっしゃっておられます。所謂本当の信心にならにゃいけんぞと。
昨日、古川先生に御供して、一瀬の窯元に参りました。そして、こう原鶴に参って、御夕食頂いて帰ったんですけれども。お風呂に入らせて頂きながら、もうお風呂に行きゃお風呂場での御理解、お話なんですよね。あのな、姫路の教会というのが先生のお兄様の教会なんです。前の教管をなさっておられた方。ね、姫路の教会に三代金光様がおなりになった。そん時に、そこの修行生の方で桜井とか言いよったですかね、というその修行生がですね、「金光様、あのお背中を流させて頂きます」と言うて、そのぉ、お風呂へ入った。「はいはい」と、おっしゃった。もう早速、もうその背中を流させて頂いた。ところがもう何時までこすっても何時までこすっても金光様が「はい、もう結構です」とも「有難うございます」ともおっしゃらんち。もう手が、とうとうこわってしもうてですね、もうそのぉ出てきたという話がありますよと言うて、そのぉ話される訳なんですよね。
金光様のお心というのはどういう事かというと、お背中を流させて頂きますと言うのだから流させよう。ご自分もまあ寒い時であるなら寒うもおありになっただろう。もうあんまりこするけんひらひらするごとあんなさったかもしれんけれども、問題はこの氏子がおかげを受けなければならん。だから、あの大抵いいかんげんに、お育て頂いたらおかげ頂きましたと言うて、何故下がらんかと言うて、その言うたと言うておられる。金光様が「よい」とおっしゃらんて。そこに金光様の御信心があるようですねえ。
御用させて頂きたいと言うから十分よりも二十分の方がよかろうと言うので金光様、ちゃんと背中向けておられる。そういう話は、もう金光様のお話の中には、もう尽きぬ程ございますねえ。
いかに、その、本当の所謂世話役というかねえ、その、という事がどういう意味のものかという事を教えておられる訳であります。自分のごたる悪人がおるめえ、自分のごたる悪人がという事が分かっただけではいかん。それでいて私の悪人の、私のような者でもやはり助からなきゃならん。そこにお縋りある、ね。そこに信心してとおっしゃる。そんなら、その、お縋りというのは、どうぞ、ね、三代様のお言葉の中から頂くと、「お賽銭箱のぐるりをぐるぐる回っておるような人ではおかげは受けられません」と、はっきりおっしゃっておられるのですから、ね、やはり金光様のお徳を慕うてお徳が頂きたいと言うのか、信心が頂きたいと言うのか、そういう信心にならせて頂かなければです、生きた御比礼が輝くようなおかげになって参りません。そこんところを頂きたい。今日の御理解八節から、ね、そのように私は頂く。屑の子の自覚をまず、ひとつ頂かしてもらえれる信心、そこから実意な、言うなら謙虚な信心が出来て参りましょう。
そして縋る焦点と言うのが、何処までも信心を焦点にしての信心でありおかげである。そこに私は、成程屑の子ほど可愛いと言う、神様のお心がよう分かるおかげ。本当に私のような者に神様がこのようなおかげを下さる、勿体ない。私のような悪人、それを仏様とてもどうにも仕様の無い自分でも、やはりこのようにおかげを頂いておる、と周囲からは、言うなら生き仏様のようにあがめられる程の親鸞上人でおありになった。
そこんところに信心の世界、本当にお救いを、我ではない自分の力じゃない、神様のおかげで立ち行く世界。ね、所謂我が身は神徳のなかに生かされてあるとゆう、そうゆう神徳の中に生かされてある、真味(しんみ)尽きぬ生活というものが約束される。そうゆうひとつお互いのおかげを願い、そうゆうおかげを目指しての信心でありたいと思うですね。どうぞ。